本の旅

ホメロスの『イリアス』は愛読書になり得るか?

アレクサンドロス大王はホメロスの『イリアス』の愛読者で、自身と従者ヘファイスティオン(ヘパイスティオン)をアキレウスとパトロクロスに擬えてたほどだ

東方遠征に生涯を費やして旅程で果てたアレクサンドロス大王にとっては、アキレウスとパトロクロスについて『イリアス』だけで十分だったのかもしれないが、戦争にだけは巻き込まれずに一生を終えたい、と切に願う小市民の自分には、『イリアス』以外のアキレウスとパトロクロスがどうだったのか?これこそが興味深いのだ!

尤もアレクサンドロス大王の時代には、トロイア戦争に関するエピソードは人口に膾炙してて、わざわざ書物に頼るまでもなく誰でもなんとなく知ってる話だったのだろうが、現代日本に生まれ育った自分には本を読むコトでしか知り得なくってよ

ところが『イリアス』【以前】が詳述されてる本が皆無に近い、一応トロイア戦争自体はギリシア神話の中に必ず入ってる話なので、まずはギリシア神話の本を片っ端から読み漁ったが、アキレウスとパトロクロスの出会い~トロイア出航までは、見事に抜け落ちてるモノばかりだったのだ

そもそもホメロスの『イリアス』には何が描かれてるのかと言えば、アキレウスの怒りが主題なのだが、 いったい何にそんなに腹を立ててるのか、その怒りの矛先は、まず味方のはずのアガメムノンへ向けられ、 後に敵方のヘクトルに向けられたのだ

もう少し詳しく書くとトロイア戦争も開戦から9年経ち、アキレウスは戦利品の分け前(捕虜にした女)を気に入ってたが、これをアガメムノンに横取りされて、そのコトで拗ねて戦場へ赴くのを拒んでたら、アキレウスの代わりに戦いに行った最愛のパトロクロスが、敵将ヘクトルに打ち取られてしまい、遂に戦地に繰り出したアキレウスはヘクトルと対戦し見事に仇を討ち、パトロクロスのために追悼競技会を開催した

ここから戦争はまだ続くのだがここで『イリアス』は終わる、『イリアス』というタイトルは「イリオン(トロイアの別名)の歌」なので、トロイア勢の将ヘクトルの死が物語の終焉に相応しいからだ

アキレウスは9年に及んだトロイア戦争の間、ひたすらトロイア勢と戦うか物資の調達(近隣の村落を掠奪)するか、そんな日々を繰り返してて心は荒むばかりだったと思われ、人間にはそういう戦場生活は耐え難いモノだろうが、パトロクロスはアキレウスの縁者で少し年長だが従順に仕えてて、いつでも傍らにいてくれる相手に対する安心感は、夫婦のそれと同等だろうかと・・・

パトロクロスは故意ではなかったが人を殺めてしまい、故国を離れてアキレウスの父ペレウスの元に身を寄せてたのだが、その前にヘレネの婿取りに際しては参加してたので、トロイア遠征には行く義務があった

一方でその義務がなかったはずのアキレウスは、オデュッセウスの奸計にまんまと陥り出征するコトになったが、ギリシア勢に加わりトロイアを目指した2人はまだ子供で、アポロドーロスの『ギリシア神話』(※)によれば、この時点でアキレウスは15歳だった
『Bibliotheca(ビブリオテーケー)』

現代の日本では15歳は単なる子供だが、当時のギリシアでは15歳で子供も作り戦争にも参加してたのだ、しかしいくら後の世に英雄と語り継がれるアキレウスでも、15歳では身体も成長しきってなければ戦闘訓練も十分ではなかったはず、ましてやそれまで身を隠すために女装して生活してたのだからね

ところがアキレウスの初陣は目的の地トロイアに到達できずに終わり、8年後に改めて出航するまで一旦帰国してその間に鍛錬して、開戦時には20代前半になってたので、この8年の日延べが生んだ時間のズレがアキレウスを英雄たらしめたのだ!アキレウスが15歳で出陣したままトロイア戦争が始まってたら、英雄と称されるほどの活躍が出来たかどうかは甚だ疑問だ

アキレウスはヘクトルを討ち取れたからよかったものの、やられてたら英雄として名が残らなかっただろうし、それに結果として名は残ったものの、実際にアキレウスが武術に長けてたかどうかも疑わしい

尤もヘクトルもその強さの裏には、アポロン神の守護があると自負してたからだし、そこへ行くとアキレウスも(若くして戦死する運命であっても)、自身をある程度まで不死身だと信じてたからだしね

アキレウスやヘクトルに次いで英雄視されるオデュッセウスは、奸智に長けてはいても間違いなく強くはなかっただろうて、最前線で危ない目に遭うのをそれこそ奸智によって極力避けてきて、結果、生き延びたので英雄とされただけでしかなかったりして、まあ神の加護を持たない生身の人間としては仕方あるまい

とにかくトロイア戦争の仔細については『イリアス』には一切無く、何も知らずに読み始めた読者には何が何やらなので、トロイア戦争について学校で教えもせずの現代の日本で、予備知識無しで読み出して愛読書になる可能性はありえんて、まず最後まで読み通すのからして無理だろう

☆追記(2023/12/23)☆

そこでオススメなのは岩波少年文庫版だ

バーバラ・レオ二・ピカードが子供向けに再話したモノで、プロローグにもエピローグにも9ページを割いて、『イリアス』前後の状況も詳しく語られてて、さすが児童文学仕立てだけあって解り易い

訳者はロバート・グレーヴスの『ギリシア神話』訳の高杉一郎で、良質な児童文学の訳もたくさん手掛けてるが、訳者あとがきに14ページを割いて、トロイア戦争についてがっつり解説してくれてる

ところでアレクサンドロス大王がアキレウスを英雄視してて、なおかつ自身に投影したのは境遇が似てるからだろう、父親が一国の王であり、神憑りな力を持つ母親との間に産み落とされ、母親に手を掛けてもらえずに育ちながらも、いざとなると成人しても尚、母親の庇護を受ける辺りがね

ローマ皇帝ネロも死の間際にさえ『イリアス』を諳んじてたくらいで、アレクサンドロス大王に負けず劣らずの愛読者だったろうが、彼の母親もまた成人した息子にかまけ過ぎてるので、さぞアキレウスに共感できたコトだろう