本の旅

Heaven is a Place on Earth『パンセ』と『利己的な遺伝子』(2013-06-30)

物心ついた頃に小学館の学習マンガ『生きている地球』を読み、宇宙がガモフの言うトコロのビッグバンから始まり、地球が生まれて、そこに生命が誕生したのは、オパーリンのコアセルヴェート説を信じた

もしも、この本に出会わなければ・・・ いや、出会ってたとしても、キリスト教の敬虔な信者になるよう教育を受けていたら、創世論を頑なに信じてたかもしれず、そこまででなくても本を読まずにテレビだけ見てたら、何も考えずに芸能人を拝んでたかもしれんて

小学生の時にはダーウィンの『ビーグル号航海記』が愛読書で、生命のダイナミズムに感銘を受けて【進化論】を信奉してたが、世界中の荒唐無稽な神話にも興味を持ってて、特に『古事記』と『ギリシア神話』、『旧約聖書』の「創世記」がお気に入りで、これらが寓話であると認識しながら、物語を創った民族の世界観の構築の仕方の差異を愉しんでた

既にどんな神も全く信じてなかったが、神に依らずともきっとこの世界は本来美しいモノだと確信してて、意識して歴史観から神を排除しようとも思わなかった

神自身は虚偽であったにせよ、信仰が派生したのは紛れもない史実で、その原動力となったのは人々の思いだったはず!神のような存在の到来を望む(希望・願望・野望)心境はわかるし、自分が人類の歴史に想いを馳せるのは、生命の連鎖以外にそういう気持ちの連鎖があったコトに感動したいからなので、こちらに危害が及ばぬ限り、人々の純粋な信仰心には理解を示したい

中学~高校でバイオテクノロジーの時代を迎え、分子生物学によって生命の誕生や進化が解き明かされてくると、創世論者が事実の方を捻じ曲げようと躍起になるのを、まるで中世の異端審問を目の当たりにしてるように感じた

神を否定しかねない科学を解する理性を持った学者たちが、自身の中で信仰と科学をどう結び付け、またどう切り離してるのか、パスカルの『パンセ』とドーキンスの『利己的な遺伝子』が、正反対の2つの解を示してくれた

パスカルの時代はキリスト教から派生したスコラ学が主流だったが、パスカルは神に辻褄を合わせて理論付けるスコラ学派ではなく、事実から導いた理論をこそ実証する近代科学の先駆者で、そうして科学的な理性をもってしてて、なぜ一方で非科学的な存在の神を信じられるのか?

『パンセ』を読み始めた頃はそこが甚だ疑問だったのだが、実は敬虔なキリスト教信者である科学者は珍しくなく、ニュートンやリンネ、そしてダーウィンにしても元は神学を学んでて、むしろ神の創りたもうた世界を正しく認識したくて、もれなく科学者になったのがこの時代までの科学者なので、ダーウィン然り、『旧約聖書』の「創世記」に反論するためではなく、神の存在を決定付ける証拠をこそ突き止めようとして、多様な生物について研究してたのだ

一方、神を全面否定する分子生物学者リチャード・ドーキンスは、著書『利己的な遺伝子』において、利己的遺伝子による理路整然とした世界観を構築してるが、それがどういうコトなのかを以下に示す

生物と非生物の決定的な違いは増殖するか否かだが、例外的にウイルスは生物ではなくとも増殖する

但しウイルスの個体は増殖するための装置のみでできてるので、この装置がONになる環境がなくては増殖できず、換言すれば生物が増殖できるのは、増殖するための環境と装置を生物の個体が併せ持ってるからだ

以上を踏まえて、遺伝子(増殖するための装置)によって、生物の個体(増殖するための環境)は操られてるので、まるで生物の個体は単なる遺伝子の乗り物のような存在であり、それに比して遺伝子の方は利己的である、とな

人類が生物の中で特別な存在で生物界を支配してるとは到底思えなかったから、ヒトを含む全ての生物が自身の持つ遺伝子に支配されてるという、その理性的な発想にはメカニズムを含めて賛同できる

しかし生物は個体としても生きる意志を持ってて、同じ種である仲間同士はもちろんだが、同じ生態系においては一見して敵対してると見做されつつも、その中で【共生】してる=助け合ってるのでは?

全ての生物は助け合って共存するのが自然の摂理に適った真理であるはず、そんな考えを根強く持ってた自分としては、利己的遺伝子の戦略に操られてる「だけ」となってしまうと、それはあまりにも情が無さ過ぎて納得行かなかった

正しいか間違ってるか、に対して、正しいかもしれないけどあんまり非人情です、なんてのは、最先端科学を学んできた人間にしてはバカとしか言いようがない反論だが、こちとらがっつり江戸っ子として生きてきちまったんで、正論だろうと人情を欠いてちゃ合点が行かねんでいっ

どうも腑に落ちない・・・何か冷たいモノを感じてしまうのは、世界には美しさや優しさが満ちてるはずで、神がいてもいなくても・・・いや、神がいなければこそ、この世が天国(※)であって欲しい、ドーキンスからはそんな気持ちが汲み取れないからだと思われ
理想郷、楽園、エデンの園、ユートピア、極楽浄土・・・等

パスカルが神の存在を肯定したいのは、人類の望む方向がそういう意味で天国であって欲しいからだとしたら、潜在的世界観では自分と同じモノを持ってると感じるのだ