本の旅
『神曲』のベアトリーチェが何者か謎だと思ったら『新生』を読むべし
ダンテの『神曲』を読めば、ロマンティストでフェミニストで信心深いダンテによって、永遠の女性であるベアトリーチェが、すっかり神格化されてるのはわかるが、ダンテの『神曲』を読んだだけでは、ベアトリーチェにはそれ以上の存在意義を見出せなかろう
言いたいコトはだ、詩人はダンテに限らず、とかく愛する女性を女神として大仰に称えたがるものだが、いくらダンテが壮大なスケールで冥界を描いて、その中でベアトリーチェに天女の役をあてがってても、実のトコロはベアトリーチェはフツーの女で、ダンテにとっての永遠の女性でしかなかったのでは?!・・・と、不信感を抱かずにはいられんて
ダンテがベアトリーチェをどれほど愛したかは、涙ぐましい程度に感動できるも、ベアトリーチェの人となりが天女として納得行くものかどうかは、むしろ「恋は盲目」であるだけに疑わしかろう
確かに美女はそれだけで女神のような存在ではあるが、死後の世界のしきたりとしてならば、恐らく、地獄に落ちるか煉獄に送り込まれるか決定するのは、生前に美人だったかどうかでなく、生前の行為如何だってのが一般的な見解だろうて
ましてや生前に偉大だった他の登場人物たちが、ダンテによって裁かれて冥界では酷い目に遭ってたりするので、そういう人々と比してベアトリーチェの何(何処)が、至高天に到達できるほどに優れていたのか、ベアトリーチェの実像に興味は尽きぬ
なんせ自分は妄想癖の(キモ)ヲタとしては、ダンテに負けず劣らずだと自負してるくらいだから、なぜ若い時に『新生』を綴り、老いてから『神曲』として昇華させたのか、ダンテの気持ちが痛いほどわかる
ちなみに『新生』では、若き日のダンテのベアトリーチェとの出会いから、彼女が若くして亡くなってしまった後の追想が描かれてて、その後、政界にまで進出するも、謀によって国を追放された初老のダンテが、人生の岐路で迷って『神曲』を書き始めるのだが、『神曲』冒頭で暗い森で彷徨ってるダンテは、古代ローマの詩聖ウェルギリウスに導かれ、地獄→煉獄→天国と冥界巡りをして、天女ベアトリーチェと再会する
有名な『神曲』の方しか読んでなければ(かつての自分がそうだったが)、天女ベアトリーチェが何者なのかまるで見当がつかず面食らう
しかしダンテの生涯の想い人と判明すれば、どれほど素晴らしい行いをした人物だったのか、あるいは第三者から見ればたいしたコトなかったとしても、どんな素敵なエピソードが2人の間にあったのか、いずれにしても生前のベアトリーチェを知りたいとは思うワケで、それなら『新生』を読もうってなる
ところが『新生』は日本では四半世紀も絶版状態だったので、今世紀になってやっとに手に入れたのは、筑摩世界文学大系の『第6巻 ダンテ』だったが、これも自分が生まれる前に出た本・・・実はおとっつぁんが持ってたってのは読んだ後で知ったというね
そうしてやっとの思いでダンテの『新生』を読んでみれば、後にダンテが『神曲』を著す際に原動力となったのが、永遠の女性ベアトリーチェの存在そのものだったコトが伺える、てか、『神曲』に表現された世界(冥界)観は、キリスト教に基づいてるのは間違いないが、信仰心以上にベアトリーチェ信奉故に構築したのだろうと感じた
ダンテの『新生』のあらすじ
ダンテは9歳の時、初めてベアトリーチェに会った(正しくは一方的に見かけた)
心の奥の秘めた部屋に住んでいた生命の霊はひどくふるえはじめたので、いとも細い血脈にまでその戦慄は伝わった。
わかりやすく言えば、ドキドキした、要は一目惚れしたのだな
『愛』はいち早く彼と契りを結んだ私の魂を支配し、(後略)
擬人化された【愛】がダンテの魂を支配した=愛が芽生えた
でもこの時のベアトリーチェについての記述は紅色の服を着てた様子のみで、ダンテがベアトリーチェを愛するようになる理由としては、性急過ぎて読者に納得を促すには不十分だ
言葉を交わした、目が合った、微笑みかけられた、そういうやりとりが全く述べられてないのは、やはり「会った」のではなくて「見かけた」だけなのだよ
しかもそれから9年後(18歳の時)の9時にベアトリーチェと再会するまで、以下の表現からどうもストーカーに当る行為をしてるような?
『愛』はいくたびも私に命じてつとめてこのいとも稚(おさな)い天使を見に行かせた。
ベアトリーチェとの初対面が9歳の時で再会が「9年後の9時」なのは、ダンテが「9」を神聖視してたからで、神聖視してるベアトリーチェもそこに関連付けたがったのだろうが、そうして再び「私に現れた」ベアトリーチェはダンテに対してなななんと~!
会釈をした!!(それだけ?!)
そしてとある道を歩きながら、たいそう物怖じした様子でいた私のいたところへ、その目を向け、今日大いなる世界で報いられている彼女のえもいわれぬ優美な物腰で私にたいそう上品に会釈したので、私はそのとき恩寵のあらゆる極致を見たような気がした。
ダンテ自身も「気がした」って表現してるくらいだから、事実としては会釈だけか、もしくは会釈さえもダンテの勘違いでは?!
年長の2人の婦人に挟まれて歩いてたベアトリーチェが、ダンテを見知ってたとしたら挨拶(声をかける)くらいはするだろう、ところがベアトリーチェはすれ違いざまにガン見してくるダンテの視線に気づいて、知り合いかどうか記憶を辿りながらダンテに目を向けてしまい、目が合ったからうっかり会釈してしまったか、そこまでではなかったのにダンテがそう妄想してしまったか
美女や美少女にはありがちなコトなのだが、特に意識してるワケでもなく無駄に好意的な笑顔になってる状態だとしたら、ダンテはすかさず妄想力を発揮して「会釈された」なんて、さもありなん
(前略)私はひどく甘美な気持になり、まるで酔ったように人々のそばを離れ、私の部屋の淋しい場所へ行ってこのたいそう上品な淑女のことを考え始めた。
会釈でこれなら、ベアトリーチェに声をかけられたら失神しそうだな
そうして考えてる(妄想してる)内に眠りこけたダンテは幻影を見るのだが、擬人化された【愛】が裸で眠るベアトリーチェを起こして、手に持ってる燃えてるダンテの心臓を食らわせるという不気味な夢で、自分がこんな夢を見たら悪夢としか思えんて
しかし中世では恋愛の表現の一つとして「心臓を食べる」ってのを使ってたらしい、それにしたっていくら野蛮な中世でも実際に食べてるワケではなかったろうに、幻影とはいえどもそんなシーンを見てしまうダンテは、エロティックなのはお好みでなくグロテスク愛好家なんだろうかね?
ダンテはこの幻影を詩(ソネット)にして他の詩人に送りつけるが、この辺りは妄想キモヲタが同人誌を作ってるのと似てて、自分がそうだったからよくわかる、一般的ではない内容は共感できそうな相手に読んでもらうしかないのだよ
但し、自分が描いてたモノは史実・事実の不明な部分を作り込んでたので、フィクションを描いてるという自覚があった
でもダンテは恐らく自身の経験をそのままソネットにしてる意識しか無く、だからこそ相手の挙動とそれに対する妄想からくる過剰反応を詳細に記しておいて、このソネットの内容は一切、偽ってはおらず、と断ったうえで詩作してて、例えば、幻影についての仔細ならば、事前に「幻影である」と断ってから述べてるのだが、擬人化された【愛】とのやりとりとか、現代日本人からしたら明らかにフィクションでしかなくってよ
『新生』においてダンテが見る幻影の特徴は【愛】が擬人化されるコトだが、例えば「旅人の姿」とか具体的な装束で現れ、その時点のダンテの心情を表してる
そして先述のような【愛】の儀式(?)を執り行ったり、ダンテの恋愛の行く末を示唆したりするのだが、その指し示す方向がどうもとんちんかんにしか思えんて
まあ既にダンテの想いがフツーの恋愛からズレまくってるので、ダンテの見る幻影=妄想、なのでまともなワケもなく、【愛】はダンテがベアトリーチェを想い続けるためにこそ、その想いが周囲にバレないように他の女性を想ってるように見せかけろ、などと手の込んだ提案をしたりするのだが、フツーの恋愛観からすれば想いが叶わずとも、永遠の女性であるベアトリーチェをひたすら想えと勧めるだろうに
そしてその偽装が真実だとして人々の噂にのぼるようになり、ベアトリーチェの耳にも入った時に、またしてもベアトリーチェと行き交うのだが、この際にダンテの唯一の楽しみであった会釈をされなかった
ショックを受けたダンテは泣きながら帰宅して部屋に引き篭もった
鞭で打たれた少年のように泣きじゃくりながら眠りこんでしまった。
眠りに付いた後はお決まりの幻影劇場が始まり、【愛】が現れて、今度は偽装をやめるように諭すために、ダンテにおおよそ次のようなコトを言う
出会っただけで彼女のモノってのもおかしいが、それ(9歳の時に会ったコト)を証明できたトコロで、ベアトリーチェも何もわかってやれないだろうに・・・残念!
その後、ダンテは友人と連れ立って参加したパーティーで、思いがけずベアトリーチェに会うのだが、ダンテは意識し過ぎて彼女の前ですっかりあがってしまって、そのサマが誰の目にも明らかなほどだったので、その場にいた女性たちに嘲笑される
しかしこの時もこれといって、ダンテがベアトリーチェと言葉を交わしたなどの記述はなく、一方的にダンテがベアトリーチェを見てぼ~っとなってただけのようだが、その時のダンテの様子が女性たちの嘲笑を誘うほどだったってのは、ダンテは決してハンサムではなかったって以上に、社交的な場において歴然とブサメン認定されてたに違いない
ほかの婦人たちと私の容貌をあざけりつつ淑女よ、汝の美しさを眺めるときに私の姿がかくも奇妙に変わるのがなんの原因(ため)であるか考えてもみない、(後略)
ダンテのルックスを嘲笑してたのはベアトリーチェもだったらしく、傷ついたダンテはその場を逃げるように去り帰宅して、泣く→眠る→幻影劇場→詩作、といつものパターンになったが、上記の詩は今回の失態(?)について、自分に非はなくベアトリーチェがわかってくれてないだけだなどと嘆いてたりする
以降しばらくは妄想しては詩作に励んでいたダンテだったが、ある日、嘲笑してた婦人たちと出くわしてしまい、傷口に塩を塗り込まれるような惨めな事態に陥らされてしまう
「ベアトリーチェにストーカーしてんの、チョ~迷惑~!ウザイ~!!」、てなカンジに婦人たちに非難されるのだ
更にかわいそうにダンテはキモヲタであるコトを自ら告白させられる破目に・・・
私の愛の目的は、彼女の会釈なのでした、おそらくみなさんもそれを了解されたことと思います。彼女の会釈のなかには、私のすべての願望の目的である福(さいわい)がやどっていたのです。だが、彼女がそれを私に与えるのを拒んだので、私の主『愛』は、そのお恵みによって、私のすべての福をそれぞれがけっして失われることのない場所に置いたのです。
婦人たちはこのダンテの言葉に騒然となったが、そりゃあキモヲタにしたって完全に逝っちゃってる系ぽいからね、ダンテの時代(ルネサンス期)のフィレンツェでも現代日本でも、こんな台詞を公然と生真面目に吐くようなキモヲタは、女子をドン引きさせるだけでなく、すっかり怖がらせてしまうよな、この場にいた女子は自身がベアトリーチェでなかったコトに、ほっと胸を撫で下ろさずにはいられなかっただろう
それにしてもこれでダンテも再起不能かと思いきや、今度はソネット(短い詩)でなくカンツォーネ(長い詩)を書き出す
人間は逆境をバネにして、それを乗り越えるたびに強くなるものだし、芸術家は苦悩を素材にして、それを表現できれば作品にまとまるワケだが、どうやらダンテは打たれ強いらしい?!
そんなカンジで、ベアトリーチェがダンテの恋人だと信じて、『新生』を読み始めるもすぐに、どうも2人は恋人同士ではなさそうだとわかる
ダンテが一方的に想ってるだけで、しかもダンテはベアトリーチェを愛してるってより崇拝してるのだった
なんせダンテはベアトリーチェに会釈をされただけで、神に認められたかのように歓喜が全身を迸るのだったが、その時の2人を客観的に見れば、神々しいまでに美しいベアトリーチェは会釈なんぞしてなかったのに、瞬間、目が合ったなんてだけで(いや、それさえもなかったのに)、キモヲタダンテが勝手に妄想してるような・・・???
若きダンテに至福を齎したベアトリーチェの会釈は、実際に会釈をしてはいなかったとしてもだが、恐らく、その攻撃性が皆無な視線に、ダンテは「神」と同等の価値を見出したのでは?
まあ神こそ無慈悲だから、むしろ同等でなく、それ以上かもだが、一般人を自負してるってだけの人間が悪意も無く、少し毛色の違う人間に対して嘲笑するコトで悦に入るとかあるけど、そういう無意識の残忍さは微塵も持ってなさそうに、ダンテにはベアトリーチェが見えたのではなかろうか?
そして『新生』の最後の方を読んでて、『新生』を『神曲』にまで昇華させるに至ったのはベアトリーチェだが、そのきっかけを与えたのは【窓辺の婦人】なのでは?
【窓辺の婦人】はベアトリーチェ亡き後に代わって登場する女性で、解釈は様々・・・というか、そもそも実体も不明で、後にダンテの妻になったジェンマ・ドナーティだとか、ベアトリーチェでもジェンマでもなく全く別の女性(達)だとか、もっと象徴的な存在で、ベアトリーチェを【神学】の頂点におくなら、それに対して【哲学】を意味してとか、諸説紛々あるのだ
ベアトリーチェの存在を、実在したのに幻影のように感じてたダンテが、亡くなってしまった後にこそ、死んでしまった=生きてたのだと実感できたのかも?
妄想世界から逸脱して現実と向き合うためのきっかけを、ダンテ自身、はっきりと何かはわからず暗中模索してたのだとしたら、そこに見出された何かが【窓辺の女性】と表現されてるのかも?
それまでのダンテの現実での行動は、思う通りに行かずに泣いて、部屋に引き篭もってるだけで、幻影を見ては妄想世界に浸って詩作をしてたのが、「外から」「中(窓辺)」にいる婦人を見てるというのが、象徴的にも思える
その後は政治家として立派に務め、結婚して子供も儲け、【リア充】ダンテはしばらく妄想世界から遠ざかってたのだが、政局混迷の渦中で追放の憂き目に遭い(事実ダンテは法的には罪人だった)、つまり、現実に裏切られたコトで、再び妄想世界に引き篭もり『神曲』が著されたのだった
ダンテが若き日に妄想キモヲタでなかったら、『新生』は書かれてなかったが、ダンテが【リア充】ダンテのまま年老いてても、『神曲』は書かれてなかっただろう
2012年に河出書房新社から出たダンテの『新生』
ダンテと言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのは『神曲』だ
『神曲』は著者のダンテ自身が主人公で、古代ローマの詩人ウェルギリウスの案内で地獄、煉獄を巡り、煉獄の山頂でかつてダンテの永遠の女性だったベアトリーチェに再会し、彼女の導きで天国へ行く・・・てのが物語の大まかな筋立てだが、舞台背景からしてこれはダンテの自伝ではなく、フィクションであるのは明らかだ
但し、登場人物(怪物含む)は先の3人は元より、誰一人としてダンテに創作された者はおらず、史実と言うと神話や伝説の世界も含めるので語弊があるが、時代を超えて人々に認識されてきた者ばかりなのだ
既存のキャラを自身の解釈で創作の中で勝手に使うのは、現代日本の同人誌の黄金パターンだが、ダンテの『神曲』も同じノリで、ヲタな自分としては親しみを感じてしまうのだよ
しかし実際には世界的に必読の古典の名著として認められており、日本でも新旧様々な訳や解説書が各出版社から出てるので、アマゾンで「神曲」+「ダンテ」で検索すると192件もヒットするが、これが「新生」+「ダンテ」では僅かに13件だ(2023年11月現在)
『新生』はダンテが若い頃の自伝的作品で、『神曲』に至るまでのダンテとベアトリーチェの出会いから別れまでが、詩と散文(詩の解説)を織り交ぜて描かれてるが、なぜ(どんな目的で)ダンテが『神曲』を書いたのか、その真意が綴られてる重要な作品なのだ
ところがこれが久しく絶版で、1番新しい角川文庫の三浦逸雄訳でさえ1967年に出てて、自分はまだ生まれてなくってよ?!
それでも幸いなコトに、2007年には野上素一訳を入手できたし、2010年におとっつぁんが山川丙三郎訳を持ってて借りたので、新訳を待たずして読むコトができたが三浦訳より古い(実は当時は知らなんだが岩波文庫版は2008年に復刊してたのだがね)
なんせ野上訳は昭和37年(1962年)に出てる筑摩世界文学大系【6】だし、山川訳は1948年に岩波文庫から出てるので文語訳で旧仮名遣いだ
出版社 | 訳者 | 出版年 |
---|---|---|
岩波文庫 | 山川丙三郎 | 1948 |
筑摩書房 | 野上素一 | 1962 |
角川文庫 | 三浦逸雄 | 1967 |
河出書房 | 平川祐弘 | 2012 |
まあ古くても旧仮名も慣れてて読むには困らなかったのだが、両者を照らし合わせてみてもどうにも意味不明な部分があり、新訳が出たらそれも欲しいと常々思ってて、それがやっと出たのが2012年って三浦訳から45年ぶりの新訳!!
訳者は『神曲』も訳してて定評のある平川祐弘(すけひろ)訳だ、ちなみに正しくは【示右弓ム】である(ギャル文字もなかなか便利だ)
新訳を購入して読んで確信が持てたのは、ダンテは妄想キモヲタのストーカーだってコトだ
初めて『新生』を読む以前には先に『神曲』を読んでて、ダンテが妄想癖の神話・伝説・歴史のヲタぽいとは感じつつも、ベアトリーチェと相思相愛だったが結ばれずに死に別れたので、そのせいでダンテは少し常軌を逸してるとばかり・・・
それが『新生』を読んでみると、2人は決して相思相愛なんかではなく、友だちでさえなく、ダンテが一方的にベアトリーチェに憧れてるだけで、何の進展もないままに死に別れてたのだった
いや、別れるってのも変な表現だ、ダンテはベアトリーチェと9歳で出会って以来、会釈しかしたコトなく、その会釈さえもダンテの思い込みと思われ
ロマンチックな悲恋を想像してたのだが、ダンテに負けず劣らず妄想癖の自分でさえ、『新生』での妄想キモヲタダンテのストーカーぶりにはドン引きだった
但し、作品としてはそんなダンテだからこそ面白いのだろうし、ダンテの妄想キモヲタキャラは友だちとしては許容範囲だし、ストーカー趣味は度を超えたら止めさせるよ、友だちとしてね
でもダンテでなくても誰しも恋をすれば、多かれ少なかれ妄想癖のストーカーにはなるものだし、相手と一緒にいる幸せそうな未来の光景が妄想(想像)できなければ、そもそも恋愛の始まりようがない
言い換えれば、相思相愛でも一方通行でも目下恋愛中の状態は、相手と一緒にいる幸せそうな未来の光景が想像できて、その通りになるように願う気持ちを捨てられずにいる事態だ
いま私は『愛』の宝に由来する一切の心づよさを失ってしまい、そのため私のあわれな身の上は語るだに恐れが迫ってくる、それゆえ乏しさを恥らいもって、隠そうとする人々のごとくせんとして、よろこびを外部にあらわし心の中は毀れまた泣くのである。
総てが満たされるような恋愛など有り得ない
もしもそんな恋愛に身を置けば、その至福たるや筆舌に尽くし難いだろうが、失った時の悲嘆はどれほどか、想像するだに怖ろしくもある
だからほんのちょっとの幸せをゆっくりじっくり噛み締めながら、それが気が遠くなるほど永く続くコトを祈るのがいい
ただ【快楽】を貪るのは悪徳だが、そうして祈りながら【快楽】を与え合うのはこの上ない美徳であろう