本の旅
『青い花』は青くなくってよ?
ノヴァーリスの未完の小説『青い花』
原題は『HEINRICH VON OFTERDINGEN(ハインリヒ・フォン・オクターディンゲン)』
全然、"Blaue Blume(青い花)"でなくってよ、これは人名で主人公の名
未完に終わったのはノヴァーリスが亡くなってしまったからだが、それが1801年
遺稿が書籍として刊行されたのは、翌1802年だった
以上のメモは2015/12/15頃のだと思われるが、この後、結局『青い花』を買って読み始めてて、でも途中までで放置状態になってる
自分が本を読むのは著者から有用な知見を得たい故なので、そもそもフィクションである小説には読む意義を見出せなんだが、ましてやそれが未完であるとしたら読む必要性を感じようもなくってよ
しかし「青い花」という表現がドイツ・ロマン主義を象徴する語句だそうで、そうなるとドイツ・ロマン主義の何たるかを語るには、これを読破せずともさわりくらいは知っておかねばなるまいて
いや、ドイツ・ロマン主義を好きで絶賛したいワケでも、逆に嫌悪感を抱いてて叩きたいワケでもないがね
尤も、ゲーテの「ロマン派は病的だ」発言を知って共感しつつも、その前提にある「古典的なモノは健全だ」と言う部分までは賛同しかねるので、ドイツ・ロマン主義に対して多少否定的ではあるか?・・・古典は様式美が良い点でもあるがなかなか病的で、ロマン派と良い勝負だと思うがね、まあゲーテが言いたいのはそこじゃなくて、感動を与えぬ小説の存在なんて無意味じゃんか、みたいな?
青い花って何?
ドイツ・ロマン派の象徴ともされる「青い花」とは、実際、何の花を指してるのかは、独語Wikipedia「Blaue Blume」の項目によれば・・・
Kornblume(ヤグルマギク)
Wegwarte(キクニガナ、要するにチコリの花)
Novalis spricht vom blauen Heliotrop.(ノヴァーリスが言うトコロの青いヘリオトロープ)
ヘリオトロープは和名がニオイムラサキってくらいで、自分が思い浮かべるのは紫色でも赤味がかった紫
この花を「青い花」と表現する日本人は皆無な気が・・・
ヘリオトロープよりは青い・・・のもあるね、多くの日本人は紫って断定しそうな青もあるけど
青って程の色の濃さはなく水色?日本人だとこれも水色よりは薄紫だと思うがね
以前、調べた際には論文のPDFがネット上にあって、『日本語とドイツ語の「紫」の色彩語について』というタイトルで、日本の大学教授が辞典などを丹念に調べて、紫の花と青の花の数を日独で比較した結果、日本では紫でもドイツでは青とされてる花が多かったそう
ドイツ語圏ではどうも青と紫の境界は曖昧模糊としてるようで、日本人からしたら明らかな紫でも青と表現される傾向にあり、換言すれば日本人の青の範囲は紫とは隔たりがあるのだな
その分、日本人の青は緑色を包括してて、世界基準では「緑」と表現してるモノが「青」とされてるけどね、なんせ国際規格で決まってる緑信号さえ青信号だし、青りんごとかアオウミガメなんだわ
要するにドイツだけでなく、世界的に、青と緑との境は日本よりはっきりしてるのだよ
とすると、「青い花」って、日本では稀有とまでは行かずともワリと珍しい花?でも「紫」でも「青」にしてしまうドイツではありふれた花なんじゃ???
『青い花』を読んでみた
『青い花』をとりあえず冒頭から読み始めてみると、そういう話と知ってはいたが「青い花」の出処は夢で見たのだった
しかも主人公の青年ハインリヒの父親が、結婚(主人公の母親との)を決意する際に花を夢で見てるのだが、「その花、青くなかった?」とか訊いてたりするのがいかんせん奇妙だ
まあでもそんなだからこそ(?)第一部の第一章を読んだだけでも、訳者が邦題を『青い花』としたのはわかる
第二部第二章でハインリヒは母親と連れ立って、母親の故郷へ向かうとそこでパーティーがあって、祖父の友人クリングゾールとその孫娘のマティルデに出会う
それでマティルデ=「青い花」となるのだが、ハインリヒも父親もどうしてそう信奉してしまうのか、自分にはまるで意味不明な展開に思えた
だって夢物語2連発なだけで何も説得力が無いし、その夢物語もハインリヒの場合は白昼夢となると、ちょっと病的な思い込みにしか・・・あぁ、ゲーテの気持ちがわかる
ダンテのベアトリーチェに対する一方的な執着心にも似てるか?!
嫌気が差してきたのでパラパラとすっ飛ばしてくと、いつの間にかハインリヒとマティルデの初々しいロマンスになり、いきなりの純文学の様相に困惑・・・甘酸っぱさに冷汗が出たね
でもむしろ非合理なドイツ・ロマンではなくってよ?
いずれにしろ、続きを読むのは今でなくてもよかろうて、結末だけを急ぎ知るにも及ばず・・・なんせ未完だしね